花見で場所取りするなら小ネタも必要!知っておきたい花見に関する豆知識

お花見場所取りは、予想外に体力が必要です。でももう一つお花見の際に必要なものを知っていますか?それは花見に関する小ネタです。場所取りができたなら、花見に関する小ネタも仕入れておきましょう。そうすれば、お花見の席がさらに楽しくなります。

お花見といえば、です。桜やお花見に関する豆知識を知って、花見の席を盛り上げましょう。


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奈良時代はお花見は「梅」だった

奈良時代、春の花は桜ではなくてでした。当時の貴族たちは梅の花を見て春を感じていたのです。あまりのかぐわしさにうっとりした様子は万葉集にも歌として残っています。しかし、梅は中国から来た珍しい植物であり、梅の香りを楽しんだのは貴族だけだったようです。

でも、なぜ桜ではなかったのでしょうか?それは、桜は神聖な花として扱われていたためといわれています。古来から、桜は神様が宿る木といわれていました。古事記には「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」という女神様が登場し桜の種をまいたと書かれています。

木花咲耶姫様は桜の花のように美しい神様で、そのお名前から「さくら(桜)」という花の名前を頂いたともいわれています。

桜のお花見の最古の記録は?

「日本後紀」によると、平安時代に京都の神泉苑で嵯峨天皇によって「花宴の節」が催されたとあります。嵯峨天皇は清水寺の境内にある地主桜のあまりの美しさに、3回も牛車を引き返しました。そのため、地主桜には「御車返しの桜」という名前が付けられてるほどです。

嵯峨天皇はそれ以来すっかり桜好きになり、翌年桜を見る「「花宴の節」を開催したということです。これ以来お花見といえば桜の花になりました。おそらく、これが桜の花見の最古の記録ではないかということです。

それ以降貴族の間でも桜の花見という風習が広まり、日本人の桜好きがこのとき定着したと言われています。

豊臣秀吉とお花見

鎌倉時代になると、貴族だけでなく武士や町人も桜を好むようになりました。安土桃山時代には、豊臣秀吉が徳川家康や前田利家など当時の武将を集めて盛大に花見の会を開きました。

世界遺産醍醐寺では桜の木が700本も植えられ、1000人もの人が集まり「醍醐の桜」を鑑賞したそうです。その半年後に秀吉はこの世を去りましたが、人生の最後に見た桜はどんな景色だったのでしょうか?

徳川吉宗がお花見を奨励

庶民の間では花を愛でるのは豊作祈願や五穀豊穣のためでした。しかし江戸時代になると庶民も純粋にお花見を楽しむようになります。それは、8代目将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として、を植えたのがきっかけでした。庶民の娯楽を奨励するために、お花見の客用に飲食店まで作ったそうです。

当時は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど、火事が頻発していました。火事の合間に盗みを働く泥棒もいて、世の中の治安乱れていました。せめて世の中を安定させたいという吉宗の願いが、お花見という娯楽を奨励した理由と考えられています。

まとめ

お花見にも歴史があり、その時代に合わせていろいろ形が変わってきたということがわかりました。同時にいつの時代にも桜は愛されていたのだなとしみじみ感じます。嵯峨天皇をはじめ、各時代の武将が桜が好きだった理由は、その美しさだけではないと思います。ハラハラと散るあの切なさ名残惜しさになにか惹かれるものがあったのではないのでしょうか?

場所取りしたあとは、ぜひ桜を愛した古来の人にも思いをはせてみてください。そうすることで桜の花をよりいっそう愛しく感じることができそうです。


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