真田幸村に敬愛された姉「松」はどんな生涯だったのか!

私の娘は演劇部です。毎年文学や歴史など、色々なテーマで演劇をしています。ある日学校から帰るなり娘は、真田幸村の姉「松」はどんな人だったのか聞いてきました。どうしたのかと尋ねると、学校祭でする演劇で真田幸村の姉「松」の役になったそうです。

役作りをするにあたって、どんな人物か詳しく知る必要があるそうです。しかし私は歴史があまり得意はありません。そこで娘と一緒に真田幸村に敬愛された姉「松」は、どんな生涯だったのか調べてみる事にしました。


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「松」の生い立ちを紹介!

まず最初に松の生い立ちをご紹介します。時は1565年(永禄8年)父親は武田信玄の家臣 真田昌幸、母親は正室・山手殿(遠山氏とも)です。真田家の長女として甲斐国甲府の「躑躅ヶ崎館」で誕生しました。一つ下の弟に真田信幸、二つ下の弟に真田幸村(信繁)がいます。

1582年(天正10年)に、松は17歳で武田信玄の重要視されてた重家臣 小山田家の小山田茂誠に嫁ぎます。しかし武田家が織田家に滅ぼされてしまいます。そこで小山田茂誠は、結婚をした際に真田昌幸の家臣になります。

その後真田昌幸は、小山田茂誠を長男の真田信幸の家臣に任命します。真田信幸に松代が変わると次席家老になります。松は長男の真田信幸と、夫の小山田茂誠を支えていきます。しかし松の幸せはあまり長くは続きませんでした。

1600年(慶長5年)関が原戦いで父親の真田昌幸と次男の真田幸村(信繁)は、反徳川家康派の西軍石田三成方に付きました。長男の真田信幸と夫の小山田茂誠は、徳川派の東軍に付いたので敵対関係になってしまいます。

ご存じの通り関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍が勝利しました。長男の真田信幸と夫の小山田茂誠にとっては良い結果となりましたが、父親の真田昌幸と次男の真田幸村(信繁)にとっては最悪の結果になりました。

真田幸村から慕われた手紙とは?

松は二人の弟の真田信幸、真田幸村(信繁)のよき相談相手になっていたようで、とても仲が良かったそうです。敵関係になってしまった次男の真田幸村(信繁)、味方同士の長男の真田信幸のどちらの弟からも、沢山の手紙が送られてきて頻繁に連絡を取っていたようです。

大阪冬の陣では、敵関係になっている次男の真田幸村(信繁)は”大阪城で無事である事、なかなか会えないが変わった様子はない”と言った内容の手紙を送っています。その返礼に夫の小山田茂誠が、鮭2匹を送りました。これに対しても真田幸村(信繁)は、礼状を送っています。

真田幸村(信繁)の最後の手紙は”不安定な世の中なので、明日のことはどうなるか分かりません。だから、私たちはもうこの世にいないものと考えてください”と言った内容だったそうです。

真田幸村は、将軍への手紙は漢字を多く使った文章で書き、姉の松に送る手紙にはわかりやすい様に、ひらがなを使ったそうです。そんな文章にも敬愛しているという事がみてとれます。

また長男の真田信幸からは”バタバタしており連絡が遅れてしまいましたが、お会いしたい”などの手紙を送っています。

さいごに

戦争のない時代に産まれた私たちにとっては、親・兄弟・夫など大切な家族が、敵同士で戦う事は想像がつきません。常に死と隣合わせになり、家を守る女性の役割は計り知れないものだった事でしょう。

色々と調べているうちに、娘は自分はこう思うけれど、時代が違う松だったらどう思うだろうなどと、現在との考え方が違う事に対して、色々想像を膨らませていました。時代を掘り進めていくと活躍する男性も大変だったと思いますが、男尊女卑の時代に生きた女性たちは本当に素晴らしいと思います。

歴史には全く興味がなかった私と娘ですが、真田幸村の姉「松」を色々と調べていると、なかなか歴史も奥が深く面白いと思うようになりました。私のようにまったく歴史に興味のない方が、歴史に興味を持つきっかけになれば幸いです。


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