姫路城歴代城主の家紋って?お城の紋瓦を探してみよう!

今度修学旅行で姫路城を訪れる
娘が、歴代の城主について下調べを
する事に。

歴史モノに疎い娘。なんだか興味を
そそられないのだとか。

世界文化遺産を前にそんな不敬な!
思っていると、歴史好きの旦那さんが、

家紋巡りが、宝探しっぽくて面白いぞ。
家紋はお城の瓦に沢山ついてるんだ。
どの家のものがあるか、探してごらん。」

とアドバイスをしてくれました。
宝探し?と聞いて、触手が動いた娘。
なんだか私も気になります。

そこで姫路城城主の瓦にある家紋
について、調べてみる事にしました。


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家紋が瓦に?

姫路城の魅力は枚挙に暇がありませんが、
城の瓦に入れられた歴代城主の家紋巡り
も、その魅力の一つです。

姫路城は城主の交代が多かった城としても
有名。その交代歴たるや、48代にまで
のぼります。

時の城主達が、姫路城の修繕や改築
した際に、自分の家紋をに入れた事
から、様々な家紋がお城に残されました。

  • 軒丸瓦
  • 天主や櫓、土塀などの屋根は、瓦葺きで
    壁から突き出た軒の部分に使われている
    のが軒丸瓦

    円筒状のこの瓦の先端に、家紋
    入れられています。

  • 壁に埋め込まれた紋瓦
  • 屋根とは別に、様々な紋瓦が一箇所
    見られる場所が、ロ(ろ)の渡櫓の壁。

    歴代の城主がどの家系だったのか、
    ここで想いを馳せるのもいいでしょう。

家紋瓦にはどんなものが?

では、実際にどの家の紋が瓦に埋め
込まれたかを見てみます。

池田氏の揚羽蝶

揚羽蝶のと言えば、池田家。

関ヶ原の戦い以後、池田輝政
城主となり、9年の歳月をかけて
お城の大改築を行いました。

左右対象の家紋が多く見られる中、
アシンメトリーなこの蝶のデザインは、
斬新さを感じます。

榊原氏の榊原源氏車

源氏物語絵巻に出てくる牛車の車
元になった榊原家の家紋です。

榊原家は7度姫路城城主を務めています。
その中でも数々の逸話を残しているのが
榊原政岑(まさみね)です。

第36代城主榊原政岑は、ゆかた祭
始めた風流大名として知られています。

有名な逸話が、倹約時勢のさ中に、
吉原の高尾太夫を身請けし、幕府の
お咎めを受けて隠居したというもの。

政岑の豪遊ぶりは遊女通いの他にも、
賭け将棋の逸話でも知られています。

八百屋の一庶民と賭け将棋をして、
政岑が負ければ相手に千両を与え

政岑が勝てば、相手が大酒
呑まなければならないと言う大胆さ。

勝負はと言うと、政岑はわざと最初は
負けて、最後に本気の将棋で勝ち
千両を取り戻したのだとか。

負けてしまったら、千両がパーです。

小心の私には絶対出来ない
(というか千両持ってないですが)
気っ風の良さです。

隠居後は越後に転封になり、反省した
のか、倹約な名殿様としてその地を
治められた様です。

酒井氏の剣酢漿(けんかたばみ)

酒井氏は9代城主を務めた家です。

かたばみ」は黄色いかわいらしい
ハート型の花で、家紋の文様は、
この花の葉の方をかたどったもの。

「黄金草」と呼ばれるくらい、この花の
草を持っておくと、お金が減らない
という俗説もあったり、

一度根付くと駆除するのが大変な
程に繁殖力がある事から、

幸運と子孫繁栄の思いをこめて
家紋として用いられるようになった
のだそうです。

酒井家で初代の城主となった第40代
城主の酒井忠恭(ただずみ)の治世では、

そんな金運とはかけ離れた
財政事情だった様です。

元々酒井家は、前橋を治めており、
利根川の氾濫などで台所事情が困窮し、

豊かそうな播磨藩への転封
家臣たちが画策。

家臣達の転封推進派と反対派で
殺生沙汰にまで発展した末の
お引越しだった様です。

ですが実情は酷なもので、転封先の
播磨の地では困窮した百姓などの一揆
が起こり、引越し早々大変だった様です。

いつの世も情報収集って大切なのね、
と思ったりしました。

紋から伺える人の心

ここで紋瓦にまつわる興味深い
お話をご紹介します。

桐の紋

姫路城の塩櫓前に、城主の家紋についての
一覧表があります。

そこに城主の紹介として羽柴秀吉 の名の
傍に、五三の桐の家紋が描かれています。

羽柴時代に秀吉が立派な天守を作った
のだから、この紋瓦を秀吉が城に残した
のも当然か、

と思いきや、違う様です。

桐の紋を使うようになったのは、
秀吉が豊臣の姓をもらってからのこと。

つまり羽柴時代に姫路城にいた時に、
羽柴氏として桐の紋を使っていた
可能性は低いと言われています。

また、桐の紋は揚羽蝶の家紋で有名な
池田氏のものとしても、紋瓦で使われて
いるようです。

池田氏に限らず、それぞれの家紋と
併用して、桐の紋を使っていた家も
あったのだとか。

桐の紋は、天皇から時の天下人に、
武家の権力者として認めた証に
授けられた紋の様です。

この様な経緯で授かった桐の紋を、
秀吉は功績のあった部下に、

「それだけの働きをしたのだから、
皇室から頂いた大変有難いこの桐紋を
お前も使ってもいいよ。」

と使用する許可を与えて、部下となる
武将たちのを自分に向けさせたと
言われています。

なので、姫路城で見られる紋瓦のうち、

揚羽蝶は池田家本来の家紋として、
桐の紋は官位を表す紋として
使われていたことになります。

家紋を人心掌握の道具に使うとは、
なんとも、人たらしといわれる
秀吉らしい手ですね。

平成の大修理で見つかった逆揚羽

姫路城では、2009年の大天守の工事
が行われました。いわゆる「平成の修理
と呼ばれています。

そこで発見されたのが、池田家の家紋で
ある揚羽蝶が、さかさまになった瓦です。

これは少し前の昭和の大修理でつけられた
のだとか。でもなぜ、さかさまに?

木造建築の伝承で、「完成と同時に崩壊
生じる」というものがあるのだそうです。

そこで「この建物はまだ完成していないから
崩壊は始まらない」という魔除けの意味で、

あえて不完全な状態を残しておくことが
あるのだとか。

例えば日光東照宮にある陽明門は、
わざと模様が逆向きで掘られている
逆柱」としても有名です。

この考え方は、国宝前山寺の三重塔の
不完全な塔でも見ることができます。

満れば欠くる世の習い」と言って、
完成すれば後は満月が欠けるように
先細りが始まるということ。

なので昭和の大修理の際に、職人さんが、
そんな意味を込めてあえて「逆さ揚羽
にしているのか、という憶測もある様です。

まとめ

修学旅行から帰った娘が、早速紋瓦
ついて写真を見せながらのお土産話を
してくれました。

風流大名の榊原源氏車の紋瓦、
見つけたよぉ〜。この人が身請けした
高尾太夫って、どんな人だったのかな?

身請けした後に、すっごい豪華なお屋敷
まで作ってあげたんだって。

転封先の越後まで連れて行ったらしいよ。
大切にされてたんだろうね。」

娘は源氏車の紋瓦から、一人の女性の
人生に想いを馳せた様です。

大きなお城で、沢山の城主がいたこと
から、その家々の事情が偲ばれる紋瓦

一度は行って見てみたいなぁと
思った次第です。


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